シドッティ神父の遺骨と「ほぼ断定」

April 7, 2016
シドッティ神父の遺骨と「ほぼ断定」

切支丹屋敷跡から出土した人骨。シドッティ神父とほぼ特定された(東京都文京区提供)

江戸時代、キリシタン禁教令下の日本に上陸した最後の宣教者、ジョヴァンニ・シドッティ神父(1668―1714年)のものと思われる遺骨が300年を経て発見された。2年前、東京都文京区小日向一丁目の切支丹屋敷(1646―1792年)跡地から三基の墓が出土し、科学調査の結果が待たれていたが、文京区は4月4日の記者会見で、遺骨のうち1人はシドッティ神父の可能性が高いと発表した。

シドッティ神父と、世話係の夫妻と見られる三基の墓は、同神父没後300年にあたる2014年7月、地下鉄茗荷谷駅(東京都文京区)から徒歩約10分の所にある切支丹屋敷跡地で発見された。切支丹屋敷は、江戸時代のキリシタン収容所のことで、「山屋敷」とも呼ばれていた。『外国通信事略』には、シドッティ神父を「山屋敷裏門脇に埋めた」との記述があり、今回の三基の墓が出土した場所と合致している。

シドッティ神父の墓と見られる十字架の印が刻まれた碑は、キリシタン研究家だったサレジオ修道会の故・クロドヴェオ・タシナリ神父が撮影した写真に残っているのみで、墓と遺骨は行方不明となっていた。

「キリシタン(切支丹)屋敷跡 埋蔵文化財発掘調査における記者会見」で、成澤廣修・文京区長は、以下の調査結果を発表した。

「国立科学博物館による人類学的分析とDNA鑑定により、遺骨の1人は西洋系男性かつイタリア人であること。さらに考古学的分析結果、文献史学的分析結果などを総合し、シドッティ神父である可能性が高いことが判明しました」

切支丹屋敷は、シドッティ神父が入牢するまでの8年間、収容者はなく、収容施設があった場所も3分の1に縮小されていた。またかつて収容されていたイタリア人のジュゼッペ・キアラ神父(イエズス会)は火葬にされていることから、今回、土葬で発見された遺骨は、キアラ神父のものではない。

さらにキリスト教の埋葬姿勢、身長、収容期間などから見ても、文京区文化財保護審査会会長の谷川章雄さんは「シドッティ神父だとほぼ特定。他の可能性はない」と断言した。

シドッティ神父は、教区司祭だったが、教皇庁布教聖省直属の大学で、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが布教した頃の日本や、その後の激しいキリシタン弾圧の様子を知ることになる。日本でキリシタンが迫害されるのは、キリスト教が正確に伝わっていないからだと考えたシドッティ神父は、江戸で将軍に謁見し、キリスト教を正しく伝えて、弾圧をやめさせようと、日本潜入を志願したのだという。

シドッティ神父が教皇の命で日本に向けて派遣されたのは、それ以前に派遣された最後の宣教師の死亡が伝えられて約20年経過した後のこと。1708年、司祭が1人もいなくなった日本に、シドッティ神父は侍姿で潜入したが、上陸地の屋久島(鹿児島)ですぐに捕縛され、長崎経由で江戸に護送された。

切支丹屋敷で、新井白石がシドッティ神父に4回にわたり尋問してできた本が『西洋紀聞』だ。明治期まで、西欧キリスト教世界を知る〝唯一の資料〟となった。シドッティ神父は、収容中に世話係の夫妻に洗礼を授けたことで地下牢(ろう)に入れられ46歳で獄死、江戸切支丹屋敷の最後の殉教者となった。

残りの2基の人骨は、1人は日本人、もう1人はDNAが残っていなかったため分析不能となった。調査報告書は7月に刊行予定。マリオ・カンドゥッチ神父(フランシスコ会)によれば、文京区はシドッティ神父の遺骨をカトリック教会に委ねる構えがあるという。

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