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みことばの黙想

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「さき、ひらく神」
4月30日
復活節第3主日
ルカ24・13―35
「さき、ひらく神」

(文:西経一神父=神言修道会/カット:高崎紀子)


どこにでもある、それを普通といいます。どこにでもあって、気にとめられることもない、それを当然とも当たり前ともいいます。当然、当たり前というのは、目にしてはいるけれども、とりわけ意識されるということはありません。横になる、座る、歩くという動作は、日常の振る舞いとして目にしますが、そこに働いている引力が意識されることは、通常、ないでしょう。引力なしには宙に浮くばかりで、立つも座るもあったものではないにもかかわらずです。たとえば、その引力のように、とりたてて意識されることもない当然、当たり前の中で、神は働かれます。いつでも、どこでも働いておられますが、気付かれず、意識されることもありません。それは御自身を当たり前の中に隠しておられるからです。


復活されたイエスさまも同じように働かれます。エマオに向かう二人のそばに「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と記されてある通りです。復活されたイエスさまも、父なる神も聖霊も、ともに、御自身を隠して働かれます。御自身を「さく」という働き方をなさいます。父なる神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された、とヨハネ福音書に記されてある通り、一体である独り子を「さき」与えてくださいました。その独り子であるイエスさまもまた、今日の福音にもある通り、御自身にほかならないパンを裂いてお渡しになります。聖霊もまた御自身を分かち、弟子たち一人ひとりの上に降臨されました。御自身を裂き、分かち、与える、それが愛である神の御姿なのです。その愛に触れて、二人の弟子は「目が開け、イエスだと分かった」のです。


日常生活は、隠され秘められてあるものによって支えられています。父の労苦も母の心遣いも、当たり前の中に隠されてあって、子の目にとまることはありません。目に見えない引力のように秘められてある父と母のありようの、なんと神御自身のお姿に似ていることでしょうか。しかしまた、自身の身を裂き、分かち、与える痛みに触れることなくして、その目が開け、愛の何たるかを子が知ることもないでしょう。復活の主に出会うとは、日常の、身を裂く痛みにおいて出会うことにほかなりません。十字架の痛苦において示された愛を知らない者の目には、復活の主がみとめられることはないのです。

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