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みことばの黙想

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9番目の幸い
1月29日
年間第4主日
マタイ5・1-12a
9番目の幸い


(文:野口重光神父=サレジオ修道会/カット:高崎紀子)


イエスの過ごされたガリラヤの地方は、他の砂漠地帯と違って水と緑に比較的恵まれたところです。イエスは人間の現実の生活がどんなものであり、人々はどんな生活、生き方を望み、求めているかをガリラヤの人々との生活の中で感じ取られたのでしょう。


それはイエスが語られた「たとえ話」の中にいくつも出てきます。「いなくなった羊の話」「無くなった銀貨を探す女の話」「種まきの話」「井戸に落ちた羊の話」、また実際にあった話として「カナの婚礼の話」「麦畑で穂を摘む話」「屋根をはいで病人をイエスの前につり下ろした話」など枚挙にいとまがありません。


そのような人々との暮らしを通して、イエスは御父のメッセージを語り聞かせておられたに違いありません。人々との暮らしの中の話、教えであったからこそ、人々はイエスの話を喜んで聞き、御父がどのような方であるか、どのような心で私たちに寄り添おうとしておられるかを理解し始めたに違いないのです。御父は人々の生活の苦しみ、悲しみに寄り添われ、力づけ、慰めて励ましてくださる方であることをイエスの行動を見て人々は悟っていったのです。


イエスは病人に言葉をかけ、手を触れ、息を吹きかけ、唾を付け、身をかがめて泥を塗るなど具体的に体を使って御父の慈しみを実現されました。イエスの行為は御父の慈しみの実現であったのです。だからこそ、今日の福音でイエスが宣言された「八つの幸い」は真に実現するものとして人々に受け入れられました。イエスの言葉は真に実現する力を持っていると人々は信じて疑わなかったのです。だからこそイエスは「八つの幸い」を述べられました。空虚な言葉ではなかったのです。


その言葉は実現するのです。単に美しい表現や、そうであってほしいレベルの言葉ではないのです。ヨハネによる福音の冒頭には「すべてのものはみことばによって造られた。造られたもので、みことばによらずに造られたものは何一つなかった」と書かれています。父である神はそこまでしてもイエスを通して人間の現状に寄り添いたいと思われたのではないでしょうか。


今日の日曜日はまた「世界こども助け合いの日」となっています。イエスが今の世界におられたらどうなさっているでしょうか。高邁な精神論を述べておられるのでしょうか。いやきっとどこそこで力強く子どもたちと過ごされておられるのではないかと思います。実現していることばほど強いものはないのです。私たちもイエスに倣って、私たちの身近なところで子どもたちに手を伸べる勇気を持ちましょう。わたしのその手はイエスの手で、父である神を身近に感じる手なのです。


「子どもたちを受けとめ、慈しむ人は幸い。その人は神の慈しみを受けるであろう」(9番目の幸い)


 

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