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みことばの黙想

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「サマリアの女と現代人」
3月19日
四旬節第3主日
ヨハネ4・5-42 または4・5-15、19b-26、39a、40-42
「サマリアの女と現代人」

(文:中川博道神父=カルメル修道会/カット:高崎紀子)


五年ほど前、「福音宣教」に関するシノドス(世界代表司教会議)は、二十一世紀を迎えた現代人を次のように譬(たと)えました。「空の水がめをもち、心の深い望み(それだけが人生に完全な意味を与えてくれるもの)を渇き求めながら、井戸のほとりにいるサマリアの女を自分と同じような者だと思わない人はいません」(参照=二〇一二年第一三回通常総会「最終メッセージ」1)。


イエスの時代においても、五人の夫と生きた人生は、決して幸せなものではなかったはずです。生活のためであったのか、内なる渇きをいやす相手を求めてであったのか、出会いと別れの中で傷つきながら、とにかく誰かにすがりついて生きてきた人の悲しみが伝わってきます。今もなお、夫ではない人と連れ添ってあいまいに生きている彼女を、イエスは正面から受け止めます。


そして、女はイエスとの対話を通して、自分の心の奥底でさがしつづけていて、気づかなかった渇きに開かれていきます。


当時の世界では、ユダヤ人男性が公の場で女性と、しかも、サマリア人と話をすることはなかったといわれます。そんな厚い壁を突き抜けて、語りかけるイエスの思いを聖テレーズは、聴き取ります。


「神様は、ためらわずにわずかの水をサマリアの女に乞い求められました。主は渇いておられたのです。『飲ませてください』(ヨハネ4・7)と全世界の創造主である方が求められたのは、ご自分が造られた者の愛だったのです。主は愛に渇いておられました…」(『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝原稿B第一部』)。


『神を求めよ』(典礼聖歌311)と歌う四旬節は、ほこりまみれ、泥まみれの人生を歩んできたこのわたしを、神が求めておられることに気づく時でもあるのです。「決して渇かない水」をわたしたちの内から泉となってわき出させ、出会おうとなさるのです。


イエスは、まさに「水」のようにわたしたち一人一人にかかわっておられます。水は、いつも高い所から少しでも低い所へ低い所へと流れつづけます。流れながら触れるものの汚れを自らのうちに取り込み相手を清め、いのちを養います。そして、一番低い所に下りきった時、自らは汚れたものとして捨てられていきます。イエスはわたしたちの足を洗い仕えるお方です。


人は、このような出会いに見舞われるとき、深い傷をいやされ、イエスとの出会いの喜びを人々にもたらす新たな泉となるのです。

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