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みことばの黙想

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「わたしにとっての洗礼者ヨハネ」
1月15日
年間第2主日
ヨハネ1・29-34
「わたしにとっての洗礼者ヨハネ」

(文:中川博道神父=カルメル修道会/カット:高崎紀子)


洗礼者ヨハネはイエスについて、「わたしはこの方を知らなかった」、しかし、「この方こそ神の子であると証ししたのである」と出会いの経緯を語ります。そして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣言します。「罪」の語源は、「的外れ」「断絶」「ゆがみ」「ずれ」といった意味です。


わたしたちも、この方を知らなかったときがありました。しかし、いつの頃からか、この方こそ、本来の自分との間のずれやゆがみを取り除き、存在の根に導いてくださるお方と思い、この方のあとをたどるように生き始めた時があったのです。


しかし、それは一方的にわたしたちが探しつづけてきたわけではありません。振り返ってみると、ヨハネが経験したように、イエスが自分の方に近づいて来られ、この方に呼ばれていることに気づき始めた時もあったのです。


「自分とは誰で、どこに向かうべきか」を問いつづけている自分自身の奥底から、実はイエスがご自分へと呼びよせておられたことに気づいたのです。


わたしの父は、太平洋戦争中、結核のために戦争には招集されませんでした。多くの同級生が戦死した中、自分も死と隣り合わせに生きた父にとって、生きていく理由を見いださずにはおられなかったのだろうと思います。幼いわたしにも、「人間とは何か?」「人はなぜ生きていくのか?」「人生、何をなすべきか?」を自問するように問いかける人でした。


やがて、父から受け継いだ問いを問い始めた時、わたしは、リルケという詩人の言葉にひとつの指針を見いだしました。自分は詩人になるべきかを尋ねてきた青年への手紙の中でこう書いています。「自らのうちへお入りなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深く探ってください。もしあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください。…深い答えを求めて自分の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてあなたの生命がわき出てくるところの深い底をおさぐりなさい。その源泉にのみあなたは、あなたが創作せずにいられないかどうかの答えを見出されるでしょう。」(リルケ『若き詩人への手紙』高安国世 新潮文庫) 


わたしにとって、父は、神を指し示すひとりの洗礼者ヨハネでした。


洗礼者ヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3・30)とイエスにかけて生き抜きます。その姿は、わたしがそれのために生き、そして死ぬことをねがうような「存在の根につながる道」を指し示します。

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