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みことばの黙想

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「食べられるものとなられた方の思い」
6月18日
キリストの聖体
ヨハネ6・51-58
「食べられるものとなられた方の思い」

(文:中川博道神父=カルメル修道会/カット:高崎紀子)


ある日曜日の夕方、二階席からミサに参加していた時のことです。聖体拝領のために並ぶ人々の後姿をぼんやり眺めながら、自分がそれまで何回くらい、どのような心で聖体拝領をしてきたかを思いめぐらしていました。ある時は、習慣的に、何かに囚われたまま、感謝にあふれて、心が渇きながら、また、ある時は後ろめたさを抱えたまま……主を頂き続けてきた自分の姿が走馬灯のようによぎりました。その時、ふと〝もしイエスのように自分が誰にでも食べられるとしたらどうだろう〟という考えが浮かび、一瞬戸惑いました。しかし、答えは即座に、〝それはできない!〟でした。自分を傷つけた人や攻撃する人に自分を黙って差し出すことの難しさと、イエスが愛したように人を愛することの意味を差し迫るものとして実感した瞬間です。


しかし、主は、わたしがどんな姿で近づいた時も、一度たりとも拒否することなく、黙って受け入れ、ご自身を差し出し、わたしに食べられて、わたしを養い続けてくださったのでした。


「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)


「食べられる」ということは、自分が噛み裂かれ、すりつぶされ、吸収されてしまうことです。しかし、食べ物は、食べる者に自らを与えつくし、食べる者を養います。


摂食障害を苦しまれた方のことばから、「食べ物」について深く考えさせられます。


「食べ物は、私たちにとっての愛です。食べることは、私たちなりに愛されるという方法なのです。両親がいないときも、食べ物はいてくれます。父に見捨てられても、食べ物は見捨てたりしません。食べ物は傷つけません。ダメと言いません。アルコール依存症になったりしません。いつもそこにいてくれます。食べるとおいしい味がします。私たちが凍える時、食べ物は温めてくれ、暑いときには涼しくしてくれます。私たちの知っているものの中で、食べ物はいちばん愛に近いものなのです」(ジェニーン・ロス『食べすぎてしまう女たち』より)


愛そのものである方が、この世で「いちばん愛に近いもの」になられ、内からわたしたち一人一人に寄り添い続けてくださいます。自らを引き裂いて与えてくださるイエスを頂くわたしたちは、周りの人々に「優しいことばをかけ、ほほえみ、平和と友情を示すささやかな行いのあらゆる機会を逃さないように」(『ラウダート・シ』230)生きながら、自分を引き裂き与え、イエスと共に永遠に生きる者となっていくのです。

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