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みことばの黙想

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「自分が決める」
6月11日
三位一体の主日
ヨハネ3・16-18
「自分が決める」

(文:山口武史神父=大阪教区/カット:高崎紀子)


明治の初めの話です。日本は、世界に追いつくために近代化を図りました。技術や社会の仕組みも欧米のものが入り、合理主義という考え方が力を増しました。豊かさや進歩をもたらしましたが、昔からあった良い伝統、考え方が時代遅れ、迷信として軽んじられることもあったそうです。近代化を声高に推奨する人が、「これからは科学の時代だ。古い考えは捨てなければならない。神社の鳥居に立小便をしたが、何の罰も当たらなかったぞ」と自慢気に話しました。この話を聞いていた友人は、「鳥居に小便をひっかけるのは犬のすることだ。お前は犬になり下がったのだ。それを罰と言わずに何と言うのか」と言ったそうです。〝罰〟は災いが起こることではなく、間違ったことをする、またはしても平気であることにあると友人は言いたかったのでしょう。私たちも悪いことをしたら地獄に行くとかではなく、神の裁きを考える必要があります。


さて、今日の福音はあの有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のフレーズで始まります。独り子イエスを通して「世」を愛し、人を救おうとする神の意思を表しています。


ここでの「世」は、単なる人の生活の場ではなく、罪によって神から離れた人や社会のことです。「世」は神から離れていますが、神は見捨てません。かえって放っておけないと思い、独り子イエスをお与えになるという最終手段をとりました。そのイエスを信じるか、信じないかが、今、私たちが救われているか、いないかを決定します。


大昔、アテネの広場では哲学者が市民の質問に答える習慣があったそうです。ある男が哲学者をギャフンと言わせようとして、小鳥を手の中に握り、「先生、手の中の小鳥は生きているでしょうか? それとも死んでいるでしょうか?」と尋ねました。「生きている」と答えれば握り殺し、「死んでいる」と答えれば、手を広げて小鳥を放つつもりでした。しばらく黙っていた哲学者は、「あなたが握っている小鳥の運命は、あなた自身にかかっています。生かすも殺すもあなた次第です」と静かな声で答え、質問した男は、自分を恥じ、自らの愚かさを詫びたという話があります。


私たちの人生、行動は最後には自分が決めます。私たちはいいことをしたから救われるのではなく、すでに救われています。あとは救いの手からこぼれないようにするだけです。イエス様を信じる選びを常にしたいものです。

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