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みことばの黙想

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「ともにいる」
5月28日
主の昇天
マタイ28・16-20
「ともにいる」

(文:西経一神父=神言修道会/カット:高崎紀子)

こちらの岸からかなたの岸へ、此岸から彼岸へ、苦の岸から涅槃の岸へと渡り往く、それが仏教の救いの基本的構図です。両岸があるとすれば、水域を挟んでいるということで、その水の流れは、三途の川と俗に呼ばれています。同じ図式は、復活徹夜祭で必ず朗読されるエジプト脱出の出来事にも見ることができます。強制労働に苦しみあえぐイスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトの地から、海の中を通り、約束の地を目指して進んで行ったのでした。天地創造のときに「水と水とを分けられた」神は、エジプト脱出の際にもモーセの手によって水を分けさせられたのです。

そうした救いの図式は、どちらも平面上を左右に移動するというわけですから、物理的に抵抗なく想像もでき、受け入れやすくもあります。それに対して、昇天というと、地上から天上へという上下の移動ですから、物理的に考えれば受け入れがたいものです。それは、たとえば幼少の頃の私に、イエスさまが天に昇ったというのは本当か、と父に尋ねさせるのに十分だったのです。折しも、アームストロングが月面に人類初の足跡を付けたという年でもありました。主の昇天を何の疑いもなく信じていた父にとって、それは残酷な質問であったろうと思います。

「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」というイエスさまの宣言、ここに単なる上下左右といった物理的な移動ではない、昇天の出来事の真実が示されます。イエスさまは、私たちの手の届かない所へと去って行ったということではなく、かえって、昇天という出来事によって、ガリラヤの地に限定されることなく、たとえば日本に住むこの私とともにおられる主となられたのです。それゆえにこそ全世界に行って福音を宣べ伝えよという命令が発せられるのです。

父なる神は、エジプトを脱出するときも、約束の地へ至るまでの荒れ野の旅の途上でも、さらに約束の地において王国を打ち建てた後も、常に「ともにいる」神として、御自身を示され、働かれたのでした。その父なる神と同じ神として、イエスさまも「ともにいる」神であることを示された、それが昇天なのです。「わたしはあなたとともにいる」という、何の装飾もない単純明快な言葉こそ、旅する神の民を潤す水であり、支える糧であります。それはまた同時に、神に似た者として造られてある私たち相互の励ましと支援の言葉でもあるべきでありましょう。

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