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みことばの黙想

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「主よ、どこへ行かれるのですか?」
5月14日
復活節第5主日
ヨハネ14・1-12
「主よ、どこへ行かれるのですか?」

(文:中川博道神父=カルメル修道会/カット:高崎紀子)


自分は最終的に、いったいどこに行きつくのか?


明確な答えの一つをいただいたのは、二十歳の頃でした。


「人生とは火葬場への待合室です。火葬場の煙突をくぐっていく時、私たちは何一つ持っていくことは出来ません。土地も、財産も、名誉も、才能も能力も…。ただ、心ひとつでわたしたちは神の前に出ることになります」。


以来、この言葉は、クサビのようにわたしの人生に打ち込まれたままです。


今まで、さまざまな待合室で過ごしましたが、何を待っているのか、どこに行こうとしているのか、誰と会おうとしているのかによって、待合室の雰囲気も、自分も変わります。


このことは否定することができません。しかし、私たちの思いは単に死を超えてゆく世界に向かうだけではなく、時空を超えた人生の奥行にも至ります。


世界宗教人口比率によると、人類の85%以上の人々は、何らかの宗教に属しているといわれます。ちなみにアブラハムの信仰に連なる人々はキリスト教、ユダヤ教、イスラムを合わせると世界人口の約55%を占めています。大半の人々がそれぞれの人生の深みに、人間を超えた神秘の存在を受け止め捜しています。


そんな中で、わたしたちキリスト者は、自らのことを「神信者」とは言わず、「キリスト信者」、あるいは、「キリスト教信者」といいます。イエス・キリストこそが真の神ご自身を示し、そのお方にわたしたちを導いてくださると信じているのです。


「道であり、真理であり、命である」イエスは、神が「父」であり、父の家にはわたしたちのために住むところがたくさんあるという真理、すなわち父のわたしたちへの思いの深さと広さを示します。「わたしを見た者は、父を見たのだ」というイエスの全生涯は父を啓示することに尽きるのです。イエスは、わたしたちが慕い求める父のみ顔を現すだけではなく、わたしたちのために、最も大切なそのひとり子を惜しみなくお与えになる父のいつくしみの心をも現しています。イエスは、天の父のわたしたちへのほほえみです。


復活の朝、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』」といわれた主は、昇天祭が近づく中で、今また新たに、「心を騒がせるな。神を、そしてわたしをも信じなさい。わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と力強く呼びかけておられます。

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