キリストの光 光のキリスト

みことばの黙想

Play Now
再生できない場合は、ダウンロードしてお聞きください
「会うべき人に出会えること」
12月11日
待降節第3主日
マタイ11・2―11
「会うべき人に出会えること」

(文:中川博道神父=カルメル修道会/カット:高崎紀子)


「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。洗礼者ヨハネの晩年の言葉です。母の胎内でイエスの訪れを受け(ルカ1・44)、人々に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1・29)とイエスを指し示し、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3・30)と、イエスに生涯をかけた洗礼者ヨハネにとってさえも、「本当に待つべき人はあなたですか」と問わざるを得ないときがありました。


また、イエスは、救いを求めて洗礼者ヨハネのもとに押し寄せた人々に、「あなた方は何を見に行ったのか」と、三度も繰り返して問い掛けます。



待降節の中で、わたしたちもあらためて誰を待っているのかが問われています。何を探して祈り、聖書を開き、なぜ教会に赴くのか。イエスについていった弟子たちに「何を求めているのか」(ヨハネ1・38)と問い掛けるイエスは、死と復活の出来事に際して、「だれを捜しているのか」(ヨハネ18・4、7。20・15)と問い直します。


人生において、何を求め、誰を捜しているのかを自問します。


もう二十年近く前、修道院皆で、老齢の宣教司祭を見送ったことがありました。亡くなる一カ月前の事です。がんの終末期を精神的にも追いつめられながら生きていた苦しい時でした。たまたま順番で病院に泊まり込んだ夜、眠れない彼と一緒にロザリオを唱えていました。途中から彼は答えなくなり、見ると、何度も静かにつぶやいていました。「イエス! あなたはいつもわたしと一緒にいてくれた。イエス! あなたはいつもわたしをゆるしてくれた」。その表情は穏やかでした。その日を境に、彼はすべてに感謝し、穏やかにすべてを受け入れる姿に変わっていきました。その翌日から、容態は悪化の一途をたどりましたが、平和のうちに美しい最期でした。



人は、会うべき人に出会えることの中に、幸せを見いだします。


目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人たちにとって、イエスとの個人的な出会いは、それぞれの人生において、見えるようになり、身動きができるようになり、人々との関係を結び直せる、生き返る出会いであったのでしょう。こんなイエスとの出会いを体験した人々によって福音は伝えられ、教会の歴史は織りなされてきました。


クリスマス(キリストのミサ)を通して、自らを食べられるものとして差し出すイエスの中に、すべての答えがあるのです。

この記事を読んだ人は次の記事も読んでいます

メールで配信
週刊ニュースレター(無料)登録は
トップ記事