15歳で被爆、今は信仰のうちに「楽しく」

June 9, 2017
15歳で被爆、今は信仰のうちに「楽しく」

加藤文子さん

祇園教会(広島市)の加藤文(ふみ)子さん(87)は、女学生だった15歳の時に市内の逓信(ていしん)局で被爆した。戦後の混乱の中で教会と出会い、同じ被爆者の夫と結ばれるが、息子を生後間もなく病で失ったことなどで、被爆の影響を恐れ、苦しみを抱えてきた。最愛の夫を4年前に失った今、残り少ない被爆者として自分の体験を伝えながらも、信仰のうちに、「楽しく」生きたいと加藤さんは言う。


1945年8月6日。「その日は、忘れもしません。太陽がぎらぎらと暑くて」


当時、女学生だった加藤さんは、広島市の自宅から広島城近くにある動員先の逓信局へ通っていた。当日朝、家を出遅れたが、最寄り駅に走り込んだところで電車が待ってくれたという。「乗り遅れたら、私は(屋外で)真っ黒になって死んでいたと思います。これも神様のお恵みというか…」


逓信局に何とかたどりつき、噴き出す汗をうちわで扇いでいた時、原爆がさく裂。3方のガラス窓が真っ赤に染まった。


その後の記憶は、無い。爆風で部屋の隅に吹き飛ばされ、15分ほど気を失った。気が付くと、30人くらいの人の山の下敷きになっていた。


太陽は雲に隠れ、辺りは夕方のようなほの暗さ。「ぼ~っとして立ち上がると、私の白い体操服が真っ赤でした。けがした人の血がしたたり落ちていたものでした」


幸いけがもなく、原爆投下直後の荒野を歩いて市内の自宅へ戻った。目に飛び込んでくるのは、遺体や負傷した人の姿で、「みんなぼうぜん自失」だった。


そんな中、食物や洋服をもらえると聞いてイエズス会の長束修道院(広島市)を訪ねた。外国人司祭らが被爆者の救済に奔走し、聖堂には、死が間近に迫った人々が横たわっていた。


修道院に通い続けた加藤さんは47年のクリスマスに、姉と妹と一緒にペトロ・アルペ神父(イエズス会)から受洗。当時、修道院で大勢が洗礼を受け、その中の若者たちが戦後の教会を支えていた。夫となる良夫さんもそんな青年の一人で、後年、加藤さんの両親も受洗した。



主の平和のうちに


加藤さんは、教会と共に戦後を歩み始めたが、原爆による苦しみは続いた。


通っていた大下学園祇園高等女学校の同級生80人は全員死亡した。遺族には弔慰金などが支給されるため、自分も「死ねばよかった」と考えることもあった。一方、同高等女学校の校長だった父親は、遺族から、なぜ校長先生の子は生き残ったかと、責められていたという。


加藤さんは、原爆ドームの下で亡くなった女学生たちの慰霊祭を25回忌まで毎年主催したが、「何であんたら生きとるん(生きているのか)?」と受付で詰問されることもあった。


また、結婚して3人の子に恵まれたが、末っ子の次男は生後間もなく病で亡くなり、長女は小学生の時に、片方の目が見えないことが分かり、放射能の影響を恐れるようにもなった。「主人も私もこうやって生かされていても、なんで2世の子どもが苦しむのかね!?と」


それでも、信仰を大切に生きた良夫さんと共に、被爆証言を行ってきた。苦しみ、悲しみの中にも息づいてきた信仰を伝えたいと、父や良夫さんの人生、平和学習のテキストを冊子にまとめることもした。


「教会でも婦人部長やらいろいろやりましたが、教会の中は温室! ミサの終わりに『行きましょう、主の平和のうちに』と言いますね。私の『外』は、家庭、友達、病院だと思っています」


今は、不眠に悩みながらも、寝床で15分間、家族や友達など身近な人、一人一人のために祈るのが日課だ。


そして、神様を信じる者として「楽しく生きなきゃいけない」と加藤さん。自分の葬儀で歌う曲も決めていると笑顔で言い、歌声を披露してくれた。


「♪たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい~♪」


今こそ、平和のために「非核三原則」を若い人たちに考えてほしいとも、加藤さんは言う。「(核兵器を)〝持たず、作らず、持ち込ませず〟。被爆2世がどんな生き方になったか、追跡調査もしていただきたい」

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